るろうに剣心の奥義伝授シーンについて質問です。
「奥義会得に死など恐れない」と行った時の剣心を見て比古が「この目・・・」とつぶやいていましたが、
あの剣心は抜刀斎モードになっていたのですか?
また、抜刀斎では奥義を会得出来ないだけであって、奥義を使えない訳ではないと思うのですがどうなのでしょうか?
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天翔龍閃を使いこなすには、
剣心が奥義伝授の際に生と死の間で見出だした、生きようとする意志が不可欠です。
この時の剣心は、死を恐れてはいませんでした。
ここで死ぬ様では、志々雄に勝つ事は出来ないと考えていたのでしょう。
抜刀斎モードになっていたかは、判断が難しい所です。
抜刀斎モードになると、剣心は自分を「俺」と呼ぶ様になります(刃衛、斎藤との戦いをご覧下さい)。
師匠に対しては、「俺」を通していましたが、これは昔から師匠に対して「俺」を通していた為であって、まさか、人斬りとして師匠を殺してまで奥義を会得しようとしていたとは思えません。
単に剣心は、奥義会得には相当の覚悟と実力が必要で、抜刀斎としての方が自分はどちらも優れている・・・と考えていたのではないでしょうか。
その結果、師匠は剣心の目に、死を恐れていないものの、生きようとする意志も見出だせなかった為に、「この目・・・」と言ったのだと思います。
奥義伝授の前後に、師匠は
「欠けているものが見出だせぬままでは、奥義の会得はもちろん、志々雄一派に勝つ事も無理だろう」
「仮に勝てたとしても、心に住み着いた人斬りには絶対に勝てん」
「お前は生涯悩み苦しみ、人を斬る。ならばいっそ奥義の代わりに引導をくれてやるのが、師匠としての最後の努め」
「お前は自分の命をすぐ考えようとする結果、真の強さを押さえ、時として心に巣喰った人斬りの自由を許してしまう」
「生きようとする意志を忘れなければ、自在に天翔龍閃を使いこなし、志々雄一派はもちろん、己の中の人斬りにすら決して負けたりはせん」
という旨の事を言っています。
師匠は、天翔龍閃伝授の際にはどちらかが死ぬと知ってしましたから、
自分が死んででも、剣心に人斬りの存在に負けない様になって欲しかったのでしょう。
それが無理なら、自分が殺すしかないと・・・
師匠にとっては、奥義伝授は、過去と決別させる為のきっかけだったのだと思います。
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