2012年3月20日火曜日

るろうに剣心のセリフに関する疑問。 志々雄 vs 剣心のクライマックス。 剣心が「...

るろうに剣心のセリフに関する疑問。

志々雄 vs 剣心のクライマックス。

剣心が「俺にはまだ、俺の帰りを…」と、

生きる意志を土壇場で持ち直しますが、

このとき、なぜ「俺」になっているのでしょう?


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「俺」を使うのが素の剣心だから。



<剣心の意思をはっきりと表したセリフ>それを言うにはやっぱり「俺」を使うと思う。



「拙者」は人と話す時に使うのかな、と

相手に敬意を表すような感じで。



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「俺」という言葉は、剣心が自問自答、葛藤しているときに使う言葉だと自分では解釈しています。「拙者」というのは、あくまでも誰か相手がいて、自分をさす場合(自分をへりくだって)、使っているのだと思います。



なぜ、そんなことが言えるのかというと、剣心が人誅編でも、落人村で「俺が犯した罪の・・・人斬りの罪を償う答えが・・・どうしても見つからないんだ」という台詞があるからです。あの場面では、オイボレに言っているようにも見えますが、剣心の葛藤の現れという部分が強いと思います。


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「俺」口調だから、抜刀斎だとは言い切れません。

比古師匠との会話では、敬語ですが「俺」と称していました。

ござる口調は相手によって意識して使っているのではないでしょうか。

斎藤に対しては「~~でござる」より「~~だ」の方が多いように思われます。

「昔」を知る人間といる時、または精神的に昂った場面(生死に関わる状況)において、俺口調になりやすいようです。

ミスではない、と思います。


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作者の記述ミスだと思います。


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検心が抜刀斎だったころは、

自分のことを「俺」と言っています。



志々雄と戦っている検心は、

抜刀斎のころの時に戻っているから、

「俺」と言っているんですね。



普通の話し言葉も、若干ちがっています。





追記

戻るといっても、完全に抜刀斎にもどっているわけでは

ないと思います。

私の勝手な推測ですが、

抜刀斎だったころの自分をよく思っていなかった検心が、

生きようとしたときに抜刀斎であった自分を否定し続けることを

やめたのではないかと思います。

志々雄と戦っている検心は抜刀斎の頃に戻っているが、

完全に抜刀斎に戻ったわけではないのだと思います。

ただ、抜刀斎であった検心と、

流浪人の検心が同じひとりの人間であって、

過去があって今がある、これから先の未来があるって感じなのかな、

と解釈しました。

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