るろうに剣心の斉藤一は、剣心の不殺(殺さず)の態度に愛想を尽かし、最後には、「悪即斬の正義と共に姿を消した…」みたいなナレーションと共に剣心のもとを去りますが…
史実に照らすと、その後、彼はどうなったのでしょうか?
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E4%B8%80
明治以降 [編集]
阿弥陀寺にある斉藤の墓
会津藩は降伏後改易され、松平家は家名断絶となったが、明治2年11月3日に再興を許された。知行高は陸奥国内で3万石とされ、藩地は猪苗代か下北かを松平家側で選ぶこととされた。東京で捕虜となっていた山川浩ら旧藩幹部は、高田で謹慎していた藩士らに諮ることなく下北を選択。藩名は新たに斗南藩と命名された。斎藤も斗南藩士として下北半島へ赴く。
斎藤は、斗南藩領の五戸に移住し、篠田やそと最初の結婚をした。篠田家は「諸士系譜」からも確認される名家で、会津藩士としては大身に属する。白虎隊士中二番隊に属し、飯盛山で自刃した篠田儀三郎とは遠縁にあたる。のち、容保の上仲人、佐川官兵衛と倉沢平治右衛門の下仲人で高木時尾と結婚した。時尾とのあいだには、長男・勉、次男・剛、三男・龍雄の3人の息子が生まれた。
その後東京に移住。新たに募集された警視庁警視官に応募し、採用された。明治10年(1877年)2月には警視局の警部補に任ぜられる。同年2月15日、西南戦争が勃発。豊後口警視徴募隊に参加し、同年5月に抜刀隊(別働第3旅団)の一員として戦闘参加。斬り込みの際に銃撃によって負傷したが、その天才的な剣技と指揮力で薩摩兵を圧倒。大砲2門を奪取するなど、当時の新聞に報道されるほどの活躍をしている。
明治24年(1891年)、警視庁を退職し、その後は東京高等師範学校に守衛として勤務した。名目は守衛だが、実際のところは撃剣部の師範であったらしく、実力差がありすぎて誰も斎藤の竹刀に触れることさえできなかったという伝説もある(『剣の達人111人データファイル』(新人物往来社)より)。
大正4年(1915年)9月28日、胃潰瘍のため死去。床の間に座ったまま往生を遂げたと伝えられる。享年72。墓は福島県会津若松市の阿弥陀寺にある。
実写版
http://www.google.co.jp/images?q=%E6%96%89%E8%97%A4%E4%B8%80&oe=utf...
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質問の答えにはなっていませんが、
るろ剣の斉藤は「壬生狼(浪)」と言われた新撰組のイメージから産まれたもので
斉藤一に関しては「新撰組のファンは斉藤を美形だと思っているようだがそう思いたいなら写真は見ないほうがいい」とコミックで書いています。
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